数々の名作を世に送り出してきた〝スタジオジブリ〟。
今日はそんな名作の数々を年表順に一覧にしてみました。
誕生秘話や豆知識や裏話も書いたり書かなかったりしていきたいと思います。

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スタジオジブリ作品一覧

1986年 『天空の城ラピュタ』
監督 宮崎駿
上映時間 124分
興行収入 11.6億円


記念すべき〝スタジオジブリ〟の一作目『天空の城ラピュタ』です。
1984年の『風の谷のナウシカ』が配給収入7億4200万と、予想を上回るヒットを収めました。

これがきっかけで『風の谷のナウシカ』を企画した徳間書店は劇場用アニメ第二作目を検討し始めましたが、制作拠点をどうするかという問題があったといいます。

というのも『風の谷のナウシカ』はトップクラフトというスタジオで制作されましたが、今後もトップクラフトのように協力してくれるスタジオが常に現われるとは限らない。

そこで同社が所有していた休眠会社を利用しアニメーション制作の為の新会社が発足しました。

これが〝スタジオジブリ〟なのであります。名づけ親は宮崎駿監督。ちなみに他の名前の候補には高畑勲監督から〝武蔵野工房〟という社名も提案されていました。

それから〝スタジオジブリ〟のジブリ(GHIBLI)の意味は第二次大戦中のイタリア空軍のカプローニ社の偵察爆撃機の愛称〝ギブリ〟。実はイタリア語で〝ギブリ〟と発音するんですが宮崎監督が〝ジブリ〟と思いこんでいたため〝スタジオジブリ〟という名前になってしまったとか(笑)。

〝スタジオジブリ〟の運営について高畑勲監督が方針を決めていたといいます。

高畑監督の案で会社経営のリスクを減らすために一作作るごとにスタッフを集め、解散するという方法がとられていたとか。この制作スタイルは『魔女の宅急便』まで続くことになります。

『天空の城ラピュタ』の企画時点での仮タイトルは『少年。パズー・飛行石の謎』、『少年。パズー・空中城の虜』、『少年。パズー・空とぶ宝島』などがあったといいます。 

1988年 『となりのトトロ』
監督 宮崎駿 
上映時間 86分 (2本立て)
興行収入 11.7億円


『となりのトトロ』は以前から宮崎駿監督が温めていた企画のひとつでした。

アニメ『母をたずねて三千里』で宮崎監督が場面設定とレイアウトを担当していた時、厳しいスケジュールの合間に描いた個人的なスケッチが始まりでした。

そこに描かれた絵には、雨のバス停でおばけに出会う女の子のシーンや、ネコバスのようなキャラクターがすでに盛り込まれていたようです。

ちなみに〝トトロ〟という名前は〝所沢にいるとなりのおばけ〟がつまって生まれた言葉だとか。

しかし、この企画は親会社である徳間書店から難色を示され映画ではなくビデオ企画ならOKを出しても良いと提案されていましたが宮崎駿監督は映画化にこだわりました。

そこで編み出した裏技が別作品(火垂るの墓)との二本立てというアイデアでした。

1988年 『火垂るの墓』
監督 高畑勲 
上映時間 88分 (2本立て)


野坂昭如(のざかあきゆき)の小説『火垂るの墓』の映画化のきっかけは、1986年の1月。

『天空の城ラピュタ』の制作中のスタジオジブリでプロデューサーを務めていた高畑勲監督が、アニメージュ編集部を訪れたのが始まりでした。

この時に、尾形英夫編集長が高畑監督に「戦争の時の子供の姿を描く作品を作りませんか?」と話を持ちかけました。高畑監督はこの提案に興味を示したといいます。

当時、スタジオジブリでは『天空の城ラピュタ』公開後の1986年秋、第二弾として『となりのトトロ』の企画を進めようとしていました。しかし、ジブリの親会社である徳間書店の上層部はこれに難色を示していました。

それならばと浮上したアイデアが『火垂るの墓』と『となりのトトロ』の二本立て企画。

しかしこの企画も「オバケだけならまだしも、さらに『墓』とは何だ」と叱責されたといいます。

再び企画は膠着状態となりましたが『火垂るの墓』の版元である新潮社がこの企画に大きな関心を見せた事が突破口となりました。

徳間書店が『となりのトトロ』、新潮社が『火垂るの墓』をそれぞれ制作し、2本立てで公開するという共同プロジェクトとなりました。

実は新潮社の佐藤亮一社長(当時)が『風の谷のナウシカ』を観ていてその内容に感動していたことが後押しになったといいます。さらに佐藤社長は小説『火垂るの墓』に深い感銘を受けていた事も影響しています。

1989年 『魔女の宅急便
監督 宮崎駿
上映時間 102分
興行収入 21億円


1991年 『おもひでぽろぽろ』
監督 高畑勲
上映時間 119分
興行収入 31.8億円


『おもひでぽろぽろ』の企画の発端は『魔女の宅急便』の企画がスタートした1988年まで遡ります。

『未来少年コナン』や『風の谷のナウシカ』で音響監督を務めていた斯波重治(しば・しげはる)が、原作を宮崎駿監督のもとに持ち込んだのがきっかけでした。

原作は、原作:岡本蛍(おかもとほたる)、画:刀根夕子(とねゆうこ)による漫画で、1987年3月19日号から同年9月10日かけて『週刊明星』に連載されていた作品。

主人公は小学五年生の岡島タエ子。彼女が学校や家庭の生活の中で経験したささやかな出来事を細やかに描いた内容で原作者岡本によると「限りなくノンフィクションに近いフィクション」だといいます。

この中からいくつかのエピソードを選び、30分ほどの短編にして『魔女の宅急便』と一緒に公開するのが提案者の斯波のアイデアでしたが、この時点ではこの企画は立ち消えになってしまいました。

この企画が再び浮上したのは『魔女の宅急便』の制作の押し詰まった1989年の2月。

宮崎駿が、高畑勲監督の次回作候補として『おもひでぽろぽろ』の名前をあげ、高畑に企画を打診したが原作の魅力を守りつつ映画化するのは難しいという結論に終わりました。

この頃、高畑は別の企画を進めていました。『国境 BORDER 1939』というタイトルのこの企画の原作はしかたしんの児童文学『国境』。1939年の初夏に京城帝国大学予科の山内昭夫が、親友の事故死の謎を解明するため満州へと旅立つところから始まる冒険活劇。

ところが『国境』の企画にGOサインが出て制作をスタートさせようとしていた矢先に中国で『天安門事件』が起きました。そしてこの事件の影響で最終的に企画そのものが中止になってしまいました。

そこで宮崎駿は、もう一度『おもひでぽろぽろ』を提案。

高畑は原作者岡本に会い「その後のタエ子がどうなったのか聞きたい」という理由で、中学高校時代から現代にいたるまでのライフストーリーを取材したといいます。

そして高畑は最終的に『おもひでぽろぽろ』の監督を引き受ける決断をしました。そして『おもひでぽろぽろ』を提案してきた宮崎駿はプロデューサーとして名を連ねる事になったのでした。

この映画の挑戦としては、成長したタエ子を27歳のOLと定めた事。
アニメーション映画の主人公に、二十代後半の女性をすえるというのは、当時では極めて例のないことでした。

シナリオ作業の前段階でまとめられていた企画書には、27歳のタエ子が登場するというアイディアは書かれていなかったといいます。当初、27歳ではなく高校生という設定だったのが、あるとき急に27歳に変わったといいます。

「これは推測ですけど、高畑さんのお嬢さんがちょうどそれぐらいの年齢だったということがあると思います。ふたりの作品って、だいたい子どもたちのだれかを想定しているフシがあります」と、関係者の一人は語っています。

新生ジブリの第一作といちづけられるこの作品をヒットさせることは最重要課題でした。

スタッフの社員化をスタートさせ、継続的に作品制作することを決めた以上、この作品が失敗すると、会社が存続できなくなってしまうからでした。

宣伝展開は「魔女の宅急便」の時の方法論をより発展させる形で行われました。

そしてこの映画で確立された宣伝方法が、それ以降のジブリ作品の宣伝スタイルの基本となり、宣伝戦略のスタイルが固まりました。その宣伝スタイルは主に6つで構成されましたが、そのうち初めての試みとして取り入れられたのですが、いまではそう珍しくないイベントとキャンペーンであり、イベントとしては、全国の百貨店を会場に公開記念として宮崎駿、高畑勲の過去のセル画やキャラクター商品を展示し、映画の一場面を立体造形物で紹介するなどしました。

「すばらしきアニメの世界」展と名付けられたそのイベントは約100万人を集めたといいます。
 
またキャンペーンでは、高畑、宮崎が日本の各地を訪れ、プロモーション活動を行いました。
このほか、主題歌を都はるみが歌ったことも話題を呼びました。

タエ子の相手役のトシオを柳葉敏郎さんにお願いしたのは、彼が秋田出身で、しゃべるときの口の形などもすべてリアルに表現できるからだそうです。

高畑さんの場合、絵ができる前に、俳優さんの声を録音するプレスコ方式で映画を作っていきますが、このときは、さらに、表情や演技もビデオにおさめて、絵を描くときの参考にしていたそうです。

そうすることで声と絵のタイミングが合うだけではなく、口の形や顔の動きまで再現でき、アニメーションにも関わらず、人間のなまめかしさが出るんだそうです。


1992年 『紅の豚』
監督 宮崎駿
上映時間 93分
興行収入54億円


「飛ばねえ豚はただの豚だ」っていう名台詞の豚が主人公の『紅の豚』。(ブタ、ブタ言ってすいません)
もともとは旅客機の機内上映用に作られるはずだった作品。

宮崎駿監督の『紅の豚』の準備がスタートしたのは1991年の3月。

当初は1990年末までに『おもひでぽろぽろ』の制作が終了し、その後スタッフが『紅の豚』へと移行する予定でしたが『おもひでぽろぽろ』の完成が後ろへとずれ込んだため、『紅の豚』にスタッフを割くことが出来ないままでのスタートとなりました。

スタジオジブリは『おもひでぽろぽろ』より社員制度を導入したため、毎月スタッフに給料を支払う必要が生まれていました。そうした理由から制作スケジュールに空きを作る事が出来ないという事情があったわけです。

そのため準備に入ったのは、なんとたったの宮崎監督ひとり。しかし一人で始めたのはスケジュールのためだけの理由ではありません。なんと『紅の豚』は15分程度の短編として企画された作品だったからです。

大作が続くジブリにとって気楽な作品を作って次回作へのステップにするのも重要だろうと宮崎監督は考えていました。特に『おもひでぽろぽろ』のような難易度の高い作品で疲弊したスタッフにはリフレッシュ出来るような短い作品が適当だろうと。

「国際便の疲れ切ったビジネスマンたちの、酸欠で一段と鈍くなった頭でも楽しめる作品」が当初の予定でした。

5月になり『おもひでぽろぽろ』のスタッフたちが『紅の豚』に参加。

6月には絵コンテAパートが完成。既にこの段階で19分あり、この時点で短編ではなく60分ほどの中編になるのではないかという可能性が濃厚になりました。

一方、鈴木敏夫(すずきとしお)プロデューサーは絵コンテを読み、その内容を面白いと思わなかったといいます。

そこで鈴木は宮崎に質問をしました。

「どうしてポルコは豚なんですか?」

「なんで豚なんでしょうね」

と自らに問い直すように答えた宮崎は、他のスタッフに質問を投げかけるなどした結果、作画監督を務める賀川愛(かがわめぐみ)から、

「自分で自分に魔法をかけたんじゃないですか」と答えをもらってしまったという。

その話を聞いた鈴木は、

「じゃあ、なんで魔法をかけたんですか」とさらに問いかけた。

するとしばらくした後、宮崎は、

「ジーナというキャラクターを作ったんです。この人がその理由を知っているんです。」と答えたと言います。

そんなやりとりの中から『紅の豚』の原型が固まっていったといいます。

その当時を鈴木氏は次のように振り返っています。

「コンテに入ってしばらくして、宮さんといろんな事を話し合う機会を持ったんです。その時にわかったのは彼が作りたいものが当初言っていた能天気な航空活劇とはちがうものになってきているということだったんです。いちばん大きかったのが、その年のはじめに勃発した湾岸戦争の影響です。そんな状況下でこんな能天気な作品を作っていいのだろうかという疑問ですね」

「宮さんが六十分になるかもしれないと言い出したからなんです。それが8月19日ごろだったと思います。なんで覚えているかというと旧ソビエトでクーデターがあった日だからなんです。」

『紅の豚』は制作当初の予定では気楽な作品だったのが、制作途中の間に色々な世界情勢の影響を受けて、上映時間1時間42分の長編のアニメーションとして誕生しました。

製作費は宣伝費を含めて9億円と発表されています。

1994年 『平成狸合戦ぽんぽこ』
監督 高畑勲
上映時間 119分
興行収入 44.7億円


1995年 『耳をすませば』
監督 近藤喜文
上映時間 111分
興行収入 31.5億円


1997年 『もののけ姫』
監督 宮崎駿
上映時間 133分
興行収入193億円


1999年 『ホーホケキョとなりの山田くん』
監督 高畑勲
上映時間 104分
興行収入 15.6億円


2001年 『千と千尋の神隠し
監督 宮崎駿
上映時間 125分
興行収入 304億円。



2002年 『猫の恩返し』
監督 森田宏幸
上映時間 75分
興行収入64.6億円

2004年 『ハウルの動く城』
監督 宮崎駿
上映時間 119分
興行収入196億円

2006年 『ゲド戦記』
監督 宮崎吾朗
上映時間 116分
興行収入76.5億円

2008年 『崖の上のポニョ』
監督 宮崎駿
上映時間 101分
興行収入155億円

2010年 『借りぐらしのアリエッティ
監督 米林宏昌
上映時間 94分
興行収入92.5億円

2011年 『コクリコ坂から
監督 宮崎吾朗
上映時間 91分
興行収入 44.6億円

2013年 『風立ちぬ
監督 宮崎駿
上映時間 126分

かぐや姫の物語
監督 高畑勲
上映時間 137分
興行収入24.7億円

2014年 『思い出のマーニー
監督 米林宏昌
上映時間 103分
興行収入35.3億円

2016年 『レッドタートル ある島の物語』
監督 マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット
上映時間 80分 


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